“鍵盤の獅子王”の気高く、美しき最晩年
1969年6月26日と28日の2日間、オーストリア南部ケルンテン州のオシアッハ湖畔に建つ修道院協会の再建記念として開かれた「第一回ケルンテンの夏 音楽祭」。それは若き日に“鍵盤の獅子王”と呼ばれた20世紀を代表する偉大なピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスにとって人生最後の演奏会になりました。
この演奏会は、幸いなことにステレオ実況録音として遺されています。6月28日の最後の演奏会。ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第18番 第3楽章の演奏中に彼は心臓発作を起こし、「気分が悪いので、少し休ませてください」と聴衆に言い残すと、演奏を中断して舞台上から控室に戻ります。休憩中の控室で医師から演奏をやめるよう、強く勧告されますが、その制止の声を退けて再び舞台に戻った彼は、当日の演奏プログラムを変えてベートーヴェンの第4楽章は弾かず、シューベルトの即興曲を最後に弾き終えると、そのまま病院に搬送されます。意識が戻らないまま、その1週間後の7月5日、85年の演奏家人生を終えました。
甘さや虚飾を嫌う彼の誠実なピアノ演奏は、晩年になればなるほど深みを増し、指揮者のカール・ベームや辛口揃いのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員に敬愛され、彼らと録音したモーツァルト ピアノ協奏曲第27番、ブラームス ピアノ協奏曲第2番は、「人類の遺産」ともいえる名演奏と高く評価されています。
「あなたは余暇に何をしていますか?」と聞かれたバックハウスは、即座に「ピアノを弾きます。」と答えたそうです。「まるで作曲家自身が弾いているピアノ」と評された理由がそんな彼の言葉に表れているような気がします。最晩年に至るまで、一瞬たりとも老いの弛緩を自分に許さず、強い意志を持って人生を全うしたバックハウスの演奏芸術は、今も失われることのない輝きを放っています。
結び
♪♪今月のヒークンお薦め・癒しの一枚(^^♪
「最後の演奏会」ヴィルヘルム・バックハウス
今月のコラムで取り上げた「最後の演奏会」。私のお薦めは、2016年に亡くなった音楽評論家・宇野功芳(うの こうほう)さんと同じで、1969年6月28日の最後の演奏会で休憩後に演奏したシューマン幻想小曲集 作品12の2曲。第1曲 《夕べに》と第3曲《なぜに?》です。
“鍵盤の獅子王”と称された男性的で謹厳実直な彼のイメージとは異なる、優しさと慈愛に満ち溢れた“人生の夕映え”とも思える演奏に癒されます。